2023年8月の話題

小池さんご逝去

4月13日に、高い学識の元に、ホームズを愛し我々会員を趣味的にも文化的にもご指導いただき、英文学英国史的にご助言いただいた、都立大学名誉教授、日本チャールズ・ディケンズ研究の第一人者として知られる小池滋さんが再挙された。行年91歳。 小池さんのホームズ二関する業績の最大の者は、東京図書刊『シャーロック・ホームズ全集』全21巻の監訳者・訳者として出版したことであろう。今も手元に置いて参照する会員にとって、注釈付き全集として金字塔を打ち立てた。 その他順不同で主な出版図書を揚げておく。  英国鉄道物語(1973 晶文社)、欧州汽車物語(1982 角川書店)、イギリスの生活文化事典(1982研究者出版)、島国の世紀(1987文芸春秋)、ロンドンの見世物(監訳 1989 図書館刊行会)、三人の記号(監訳 1990 東京図書)、ロンドン(1992 文芸春秋)、ロンドン(1999 文春文庫)、英国らしさをする事典(2003 東京堂出版) また追分ホームズ像建立の発起人代表を務めた。カラオケがお好きで、鉄道唱歌を終わりまで諳んじておられた。まさに日本のホームズ活動とJSHCを先導しておられた文化人のお一人である。

 

     小池先生を悼む 中島俊郎

 小池滋先生は誰もが知る鉄道ファンでホームズ愛好家であったが、何よりも冠たるヴィクトリア朝文化研究者であった。ひとつのエピソードから語っていきたい。
 ディケンズの研究会が神戸で開催され、小池先生が講演される予定になっていた。先生の宿の手配などを私が担当していたのだが、海辺にある神戸を代表するホテルを予約した。だが、小池先生から直接、私に宿の変更の申し出があった。JR三宮駅構内にあるホテルに移動したい、と。
 夜通し列車が走る音を子守唄として聞き、目覚めたときには特急がホームに突入する瞬間を見たいと熱望された。さすが鉄道マニアを自称するだけのことはあると納得した。
  だが、次にはホームズの事件簿のような出来事が起きた。講演の時間が迫ってきたが、杳として先生の姿はどこにもない。ほぼ開演の10分前になって、講演者の行方不明が場内にも伝わったのか会場は騒然となってきた。あと5分を切ったところで先生は忽然と姿を現した。そしてポケットから鉄道時計をやおら取り出し、「そろそろ発車の時間です」と口を切り、場内をわかせた。
 講演は脱線をくり返しながらも、無事、終点にたどり着き、「そろそろ終着駅です、とりとめない話を拝聴して下さり・・・・」と再び鉄道時計を見ながら講演を閉じると場内から嵐のような拍手が湧きおきた。
  懇親会のとき、「どこへ行かれていたのですか?」と尋ねると、摩耶山のロープウェイの記念切符を買いに行っていたのこと。この一件からも分かるように、先生は鉄道マニアとホームズ愛好家が合体したような存在であったが、ある時、興味深いことを言われた。どの程度、ホームズに熱中しているかという度合いを測定するため、「ホームズは食堂車でランチをとったことがあるか?」という質問を発してみると、その答えの深い浅いにより、愛好程度を測るそうだが、文化史的裏づけが必要で思考をうながす面白い設問だと思った。そして何よりもホームズが心底好きだと感じさせられたのは、「オックスフォード版シャーロック・ホームズ全集」に対する書評翻訳(『鳩よ』1999年8月号)であった。訳文も訳注も水際立っていた。今でも思い出すのだが、「シャーロック・ホームズは何と言っていたかな?『ぼくの方法はきみも知っての通りだよ。些細なものの観察が基本になっているのさ』」という締めくくりの一文は、おのずと先生の温顔と重なってくる。
  小池先生を紹介して下さったのは松村昌家先生(先生も今はない!)であった。それはある学会の後、神田は淡路町にある「藪蕎麦」における酒席だった。研究の右も左も分からぬ若輩には、お二人とも仰ぎ見る老大家のような風格がそなわっていて、談論風発、話題は天を舞い、とどまるところを知らず、発想の妙は変化をきわめ見事だった。松村先生が命名された小池先生の「鉄道三部作」はすでに出版されていて世評は高かった。こちたき研究というようなものではなく、ひたすら知的好奇心と遊び心にあふれており、文章をつづる筆をあやつる手は発想と展開に追いつかず、ご自身はもどかしさを感じていたのではあるまいか。お書きになるものにはたえず想像力が躍動していた。
  やがて宴も果て、関西へ帰る松村先生と私は新幹線の人となったが、急に先生は、「東京に住んでなくてよかった。僕も書くのが好きだから、ジャーナリズムからの注文は断らず、何でも書いてしまう。だから渦のなかに埋没してしまいかねない、小池君みたいに」と険しい顔つきで吐露された。そして、「小池君も落ち着いて勉強しなくては」と言葉をついだ。小池先生の膨大な業績に対して松村先生の辛口な批評は、ある意味、学問の厳しさをとらえたものだと解釈したい。私は反論したかったが、口をつぐみ、疾走する窓の外に広がる暗闇を凝視していた。
  多筆な小池先生がある時期を境に断筆され、社会との交流を絶ち、孤立した生活に入られた。それは先生なりに死をむかえる厳粛な時間と考えられていたのだろう。私も含め先生を知る者はそうした先生の姿勢を尊重し、静かに見守った。思えば先生が世に問うた最初の研究書はピカレスク・ロマンを論じたものであった。陽気な旅人は疲れ果てて、姿を消したとは考えたくはない。なぜならば遺された多大な著述はいつまでも私たちを鼓舞し活性化してくれるからだ。
 滋賀の長浜で行なわれたホームズクラブの大会において講師として立った私の発表を論評して下さったが、大会が終了してから、そっと紙片を渡して下さった。そこには疑問点と研究の示唆が明示されていた。とかく研究者がもつ狭量さなど微塵もなくどこまでも人間らしいやさしさにあふれた方であった。ただ、すべてを過去形で語らなければならないのが無性にさびしい。