《まだらの紐》でホームズが見逃した謎を解く
10月の奈良仏滅会でかねて平賀さんから、JSHCでは「半世紀も前に実吉さんから《まだらの紐》のトリックは誤りとの指摘があった」と問題提起し「JSHCでは主要な会員がこの事実を知っているのにこれに対する研究は発表されておらず、ホームズ学研究の能力が問われている」との発言があった。これをを受けて、中尾、森田、眞下の三会員がこれに取り組んだ発表があった。ホームズは、ロイロット博士が不在の時にその部屋を調べ、金庫、牛乳の皿、上に昇った跡のある椅子、先を丸く輪に結んだ犬の鞭を見かけ、金庫はヘビを閉じ込めておくところ、牛乳の皿はヘビを呼び戻すためのエサ、椅子は通風孔にヘビを入れるために乗る台、鞭はその輪にした部分にヘビの首をひっかけて運ぶ道具とみて、ロイロットの犯行を推理した。
これについて、実吉会員は、当時は「つどい」と呼んだ全国大会でこれを全面的に否定する発表を行い、著書『シャーロック・ホームズの決め手』で、次のとおりホームズが推理したトリックを否定している。
(前記ホームズの推理を挙げて)そんな事実はまったくない。
いかなるヘビでも、牛乳のにおいや形で、ヘビは誘えない。第
一にそれはヘビの飲食物ではない。第二にヘビは「動視」とい
ってその動かない目「固定眠」で獲物が動くのを見て、はじめ
て捕食行動を―つまり移動を―誘発される。ヘビは、匂いの動
物ではない。きわめて知能は低い。「呼びもどす」ところまで
調教した人は、まずないであろう。ヘビには外耳がない。従っ
て、あの「低い口笛の音」でヘビを呼びかえしたということが
あり得なくなる。空気中の音声は聞こえないのだ。(後略)
ホームズの推理したトリックは動物学者として全否定ある。しかも「しかし白人の世界は、ヘビは牛乳に引き付けられるいう迷信があるのだ」と誤った考えの人の存在にまで触れている念の入れようである。
しかしこのJSHCで行われた実吉さんの研究発表に対してJSHCの反応はにぶかった。本来は成立なくなったホームズの推理による誤ったトリックに対して、成立するトリックを研究して究明し事件の真相を明らかにしなければならない。しかしこれはなされなかった。そもそも初期のJSHCの活動は正典を含む外国文献の翻訳・移入が主で、クラブ設立者の小林さん自身もホームズ研究家というより翻訳家としての仕事が多い。生涯の業績は、オックスフォード版ホームズ全集の翻訳であり、事件簿の題の《四人の署名》を《四つのサイン》に、《緋色の研究》を《緋色の習作》などと改めたことがあげられる。そんな中で日本人のオリジナル研究である実吉さんの指摘に対する研究が出遅れているのも当時のJSHCの体質を反映したものなのかも知れない。
しかし発表後半世紀を経て、平賀さんの指摘と、これに応えた関西支部の中尾、森田、真下さんの研究でようやく真相究明の試みが軌道に乗った。JSHC初めての快挙ある。目下実在種のミルクヘビを調べ毒を持つ種は未発見あるが、ヘビに限らず、毒蜘蛛、毒トカゲ、サソリ、毒ネズミ、ゲジゲジ、毒ミミズなど条件に合った生物を探すか、仕掛けを考案して、この名作《まだらの紐》を完成させる研究が待たれる。それも外国文献の知識をただ移入、暗記、翻訳するのではホームズ学ではなく、オリジナルなアイディアの研究を。