電車内で

 たまの外出、郊外のわが街から都会へ向かう電車の中。私の前に立った小学校中学年くらいの男の子が、一心に本を読んでいる。多くの人たちがスマホに目を向ける中、揺れる電車の中で何を読んでいるのだろう、と見ると、青い鳥文庫の「バスカビルの犬」だった。
 少年よ、私は君がうらやましい。きっと初めて「バスカヴィル」を読む君が。面白いよね、君は今、混みあった電車の中ではなく、ほの暗い荒れ地のダートムアにいるんだ。遠くに不吉な犬の遠吠えが聞こえる。わくわくするよね。
 そうだ、私も遠い昔、この少年くらいの年にホームズと出会った。小学校の旧校舎、黒ずんだ木の床がきしむ図書室の棚で。ポプラ社の子供向けミステリ全集をちょっと怖そうな表紙につられて借り出した。それから、あのあかね書房の少年少女推理文学全集。モダンな装丁とイラストに狂喜した。
 借り出せる冊数が限られていたので、次の巻を他の子に借りられないように次の貸出日まで本箱の裏に隠す、という姑息な手段まで使って読みふけったっけ。
 あかね書房の全集に入っていた、クィーンやクリスティ、カーなどは今も好きな作家だ。そして、なんといってもホームズ!!ホームズの正典を初めて読んでいた私は何と幸せだったのだろう。ヴィクトリア朝のロンドン、入り組んだ街並みを駆ける、ホームズと相棒のワトソン医師。ページをめくるとすばらしい冒険が私を待っていた。
 あれから何十年もたった。コナン・ドイルのホームズ物語は長編、短編合わせて60篇しかない。ホームズ読みたさにパロディやパスティッシュに手を出した。漫画や映画もみた。
 しかし、あの子供のころのあのわくわくはあまり感じなくなった。どこか醒めた目で本を読んでいることに気付く。頭の中に溜まった澱のような知識が正典を読み返している時でさえ、顔を出す。
 少年よ、願わくばホームズ物語を読み続けてほしい。まっさらな心でホームズの冒険を楽しんでほしい。君の前の座席に座っている見知らぬおばはんは、君がうらやましくてならないのだ。

2020年09月27日