9月の話題で、《バスカ》を取り上げた。この事件は9月25日~10月20日の間に発生しホームズが関与した事件であるので、月をまたいで10月の話題としてもこの事件の2つのテーマを取り上げよう。
この事件では、ワトソンとモーティマー医師と、サー・ヘンリー・バスカヴィル、それにモーティマーが飼っているスパニエル犬がロンドンから現地に向かって先発し、ホームズは別行動をとっている。利用したのはパディントン発のグレート・ウェスタン鉄道である。乗ったのはロンドンからの直通列車でダートムーアに近づくと、線路近くの四角い緑の畑と低い曲線を描く森のずっと向こうに、灰色の丘が憂鬱そうにぬっと顔をのぞかせ、その不気味なギザギザの頂上が夢の中の幻のように遠くかすんでいるのを眺められた。ヘンリー卿は久しぶりの郷里に感慨無量の面持ちであった。そして汽車は最寄りの田舎の小さな駅にとまり、下車した。この駅はダートムーアの南口にあたるサウスブレントである。
ここで、ベアリング=グールドは一世一代の名推理(?)を発表している。汽車がダートムーアに近づき、ヘンリー卿にとっては子供の時に離れた郷里の丘が見え出すと歓喜の声を上げたのであるが、その丘はブレント・トアであると推定している。ただ本物は不気味なギザギザの丘であるが、丘の頂にはセント・マイケル教会の塔で、形が異なっているし、ダートムーア丘陵から西へはずれた場所にあり、「ちょっとした誤り」と言い訳している。そしてこの丘の先の小さな駅で下車したのであるが、その駅はギルによればダートムーアの西側のブレントかアイヴィ・ブリッジであろうと推定している。丘はダートムーアの丘陵地帯から西へ外れたところで、汽車を降りたのだとすればバスカヴィル・ホールに向かう道筋の描写とは異なるが、ベアリング=グールドは下車駅はコリトン駅だとの説を出している。条件にはほとんど合わないがプリンスタウン監獄から直線距離でたった10マイルの所であるとその理由をあげている。しかし裏に隠された理由は丘を眺めその先の駅で下車したとの行動に合わすために、丘はブレント・トア、下車駅はその先のコリトンと強弁した上で、コリントン駅の近所にはバスカヴィルの館に相当する屋敷はなく、とりあえずは駅近くのリューハウスに違いないとの説を唱え、この説を裏書きする要素として、この家の持ち主の家紋は熊の頭であるとよくわから仁理由を挙げている。
いろいろと強弁しているが、ベアリング=グールドは、自分の祖父の代まですんでいたリューハウスをバスカヴィル・ホールだとするための理由付けをしているので基本的にロンドン発の直通列車はブレント・トアの麓もコリトン駅も通らない。しかし立派な注釈付全集に著名なベアリング=グールドが記している説である。ことに海外文献に弱い日本のシャーロキアンのこと、観察も吟味もせず疑いもせずに読んでいるかもしれない。この説が我田引水の策であることくらいは気が付きたいものである。
次にもう一点、コナン=ドイルの最高傑作と目される《バスカヴィルの家》であるが、この事件簿は実はコナン=ドイルの頭から生まれたものではなさそうなのである。原作者はフレッチャー・ロビンソンとするのが正しいかもしれない。
1901年3月のことであるが、コナン=ドイルと旧知のフレッチャー・ロビンソンの二人がノーフォーク州の東海岸に面したクローマーの町へゴルフに出かけた。そしてホテルで、ロビンソンが郷里に伝わる魔犬伝説等を話して聞かせた。そして物語の構想をまとめ、コナン=ドイルがそれを執筆することになった。若いロビンソンの名で発表するよりも、すでに著名な作家であったコナン=ドイル名義にして方が売れるだろうとの打算もあったかもしれない。
後日コナン=ドイルはダートムーアを訪れて、舞台である丘陵地帯をロビンソンの案内で視察した。その時に利用したロビンソンの馬車の馭者の名はハリー・バスカヴィルであった。このようにして執筆され『ストランド・マガジン』に発表された《バスカヴィル家の犬》は大ヒットした。
この原稿に、コナン=ドイルは、ロビンソンに対する謝辞を付している。
「この物語の発端は、私の友人であるフレッチャー・ロビンソン氏に
よるものです。同氏はまた、物語の大筋や地方の描写の細かい部分で、
私を援助してくれたのです。」
単行本となった時には、ロビンソンに宛てた手紙の形で謝辞を述べている。英国版と米国版では、何故かよく理解できないが、少し文章がちがう。
英国版単行本の謝辞。
「親愛なるロビンソン君
この物語は、君が話してくれたイングランド西部地方の伝説に、その端
を発したものです。このことと、そして詳細に至るまで手助けをしてく
れたことに対して深く感謝します。敬具」
ストランド・マガジンに掲載された謝辞と比べると少しトーンが落ちている。ロビンソンは共同執筆者としての印象が薄れ、執筆協力者の印象が強くなっている。
米国版単行本の謝辞
「親愛なるロビンソン君
このささやかな物語の最初の着想は、君が聞かせてくれたイングランド
西部地方の伝説からの示唆を受けて、私の脳裏に浮かんだものです。こ
のことと君が支えてくれた物語の展開に関する助力に対して深く感謝し
ます。 敬具」
ここでは、ロビンソンの協力は「示唆」に格下げされている。だんだんとロビンソンの業績は薄くなり、自分の創作であると宣言している。
1929年発行の、英国のジョン・マレイ版の前書きになると、ロビンソンの話は執筆のきっかけですべて自分の創作であると宣言している。
「この物語は、その早世を悔やんでもあまりあるフレッチャー・ロビンソンが話してくれたダートムアの彼の家の近くに伝わる幽霊犬の伝説がきっかけであった。彼の話がこの物語のきっかけであるが、物語の話の筋や実際の記述は、一言一句に至るまで、すべて私の創作であることを付け加えておくべきだろう」
だんだん変わっていくが、何が本当なのだろう。