2022年9月の話題

 

9月に発生した最人気事件は《バスカ》

 ホームズの事件簿で9月に発生したもので最も人気があるのは何といっても《バスカヴィル家の犬》であろう。全60編の事件には、ワトソンの発表した文章に事件発生日が明記されているもの、記述から発生日が推定されるもの、前後の関係から類推するもの等々、その正確さは様々であるが、一応何人かのシャーロキアンによって全60編の発生日の研究が進んでいる。
日本の研究者としては関西支部に所属され追分フォーラムの校長を勤められた故鈴木利男氏が全60編の発生日をすべて推定されている。全編を判定されたホームズ年代学者は世界で10人に満たず、鈴木氏はその貴重なお一人で成果を『シャーロック・ホームズ事件簿の年譜』と題して私費出版された。我が国のホームズ学研究史上貴重な実績である。
年代学は、ベアリング=グールドが有名でこの事件簿は1888年9月25日から10月20日の間の事件としている。コナン=ドイルが表した4つの長編の内の一つであるが、ストーリーが怪奇的であり、長編中では人気トップ、短編を加えた60篇でも、アンケートを行えば必ずと言って良いほどベストテンの上位に入っている。
物語は、ホームズとワトソンの朝食の席からスタートする。前日にホームズとワトソンを訪ねて来たが外出中で会えなかった依頼者が、忘れていったステッキをめぐる二人の推理ゲームから始まる。
ステッキには「王立外科医学校免許証所持者、ジェイムズ・モリアーティ―博士に、C・C・Hの友人一同」と彫られており、このC・C・Hについてワトソンは地方の狩猟クラブで、会員が何かこの医師の世話になってお返しの記念品として贈ったのだろうと推理した。ホームズはチャリング・クロス病院を示すと推理した。そしてステッキの減り方から病院勤めをやめて田舎で開業した時に送られたものとも推定した。注釈には「ペナン・ローヤー」製のステッキとの表現があるが、読者があまり詳しく知らない事項なので「マラッカ海峡に浮かぶペナン島に生まれている小ぶりのヤシ」と注釈するものもあれば、上述のとおりホームズたちの見解などを注釈するものもある。
チャリング・クロス病院であることは、翌日再訪した本人のから確かめれた。場所はネルソン提督の像が聳え立つトラファルガー広場と、その北に建つナショナル・ギャラリーの東北方向で、当時のサウス・イースタン鉄道のターミナルあったチャリング・クロス駅や、《最後の事件》でホームズがヴィクトリア駅から大陸行の列車に乗る時に馬車を乗り換えたラウザー・アーケードのすぐ北にあった。ここでベアリング=グールドの注釈付全集で《バスカ》の注釈を担当した冨山太佳夫氏は肩書を「外科インターン」と要領よく訳しているが、その勤務していたモーティマー医師が結婚して病院をやめ、デボン州の田舎に引込んだのであるが、そん時記念に贈られたステッキだろうと推理ゲームをしているのである。
外科医については複雑である。昔は大雑把に言えば床屋と外科医は同じ組合に属し、そこで徒弟制度で養成していた。床屋の入口に赤と青の線が入った棒が立っているのはそれが動脈と静脈を意味し、外科医と理容師が同列であった時代の名残とも言われている。時代が進むとモーティマーのように外科医学校で免許が与えられるが、ドクターではない。さらに時代が進むと大学医学部で外科医の資格が与えられた。外科医は理容師よりも深く学ぶのは当然で養成制度の進化が見られる。このように過渡期にはいろいろな経歴の外科医が混在したのであろうことは想像に難くない。ホームズ学を考えるにあたって、現在の日本の状況や自分が知っているだけの知識を当時の英国の社会に当てはめて考えることは避けなければならない。
これはホームズ学の大切な心得である。いずれにせよ、内科医の身分はジェントルマン階級に属したが、外科医は徒弟から始まっており、当初はいわば職人で身分に差があった。
ホームズの全集はいくつも編集されているが、ベアリング=グールドは注釈付全集という新ジャンルを生み出した。しかも、通常の全集は、作者が発表た順に編集されるが、ベリング=グールドの全集はその事件の発生日を究明してその順序で編集し、ホームズの一代記の形になっていることである。
注釈付全集としては、別に小林・東山さんのものがある。こちらは、英国オックスフォード大学出版部が編集したものを翻訳しており、原文も、ストランド・マガジン社に渡した自筆のもの、英米で出版された何種類かの本や全集を比較検討して注釈も付けているものなどいろいろである。訳も冨山さんが「外科インターン」と文学的に訳した部分も「外科か内科の院内住み込みの研修医」と直訳的に小林さんは訳し、「王立外科医学校免許証所持者」は「王立外科医師会会員」としている。
この辺りは翻訳者の語学的・文学的・知的センスを問う以外にない。いずれにせよ、細部の字句が気になる者はそれとして、全60編の事件簿の内で最高の人気作であることに変わりはない。