2月の話題軽井沢のホームズ像は松下さんの発案
軽井沢の追分にホームズ像が建っている。
場所は旧中山道追分宿を西に出はずれた、京都に向かう中山道と北陸に向かう北国往還の分岐点にあたる公園の奥まった所にある。江戸時代に建立されたが道路工事などで立ち退きを余儀なくされた庚申塚などの石塔を集めて保存している庚申塚公園の奥まった所にひっそりと建っている。左へ行くと花の吉野山、右に行くと月の姨捨に至るとの風流な石碑も建つ。
軽井沢にホームズ像を建てるアイディアは、関西支部の設立者でもある故松下了平氏が発案した。ここで毎年5月になると「追分フォーラム」が開かれる。
昭和62年12月に、JSHC会員が共同執筆した『熟考シャーロック・ホームズ』が発行されたが、その中に松下氏が「ホームズ庵」なる一文を寄せている。その冒頭部分を引用する。「聖バーソロミュー病院、クライテリオン酒場、ライヘンバッハ滝近くのマイリンゲン等、ホームズの記念碑は英国のみならず、世界中の各地に存在する。そうと知らなくとも、日本にもホームズの記念碑を建てたいと思ふのは、シャーロキアンの人情というものだろう。」ここまでの文脈では、松下氏は銅像までは考えていないようである。聖バーソロミュー病院以下までの記念碑はすべて記念プレートである。続いての文章を見てみよう。
「では、日本でホームズの記念碑を建てるとすればどこが適当だろうか。『ホームズ物語』に登場する日本は、正倉院、聖武天皇、バリツ、日本の箪笥などが思い浮かぶ。ここで筆者はホームズを記念する場所として信濃追分を提案したい。」
ここで軽井沢の追分が登場する。雑誌『宝石』の昭和33年10月号に、延原謙は「ホームズ庵老残記」なる一文を寄せているが、それには延原が住んでいた追分の別荘に「ホームズ庵」との標札を掲げていたと記されている。そもそも延原は大正末頃からドイル作品の翻訳をてがけ、昭和27年に『ホームズ物語』の全訳を完成した。60編の事件簿の全訳を果たしたのは当時延原のみ、一章をそれに捧げたと言っても過言ではないと評価し、「ホームズ紹介で日本に貢献した第一人者」と評されていると紹介している。
そして、シャーロッキアーナが知的思考の遊戯であるとすれば、ホームズ庵の辺りこそ、ホームズの記念碑を建てるのにふさわしい唯一の場所ではあるまいか、と結んでいる。
新潮社から全6巻のホームズ全集を出した後の昭和28年から毎年夏には、追分の旅館油屋の離れを借りて軽井沢に滞在し、文筆に励んだ。昭和27年の新潮社の全集は日本初の快挙であるが、延原自身は出版を急いだため必ずしも満足できない部分もあったと述懐している。新潮文庫版はこれらを手直ししたと思われる。新潮文庫版はこの涼しい軽井沢が一定の役割を果たしたことだろう。そして昭和33年に金百万円也で別荘を建設したのである。
日本のホームズ全集に、追分が果たした役割は大きいものがある。