41年前の関西支部
今を去る41年、昭和57(1982)年の関西支部設立前後の模様は、本欄「3月の話題」で報告した。今回は設立初年度を中心として41年前の関西支部の様子をご報告する。
まず第1回仏滅会の出席者名簿を引用しておく。今は故人や退会者も多いが、出席者は23人、この人々が集まらなければ関西支部の成立・発足はなかったので、記念すべきメンバーで、これらの人が集まらなければその後の継続・発展はなかったのである。
岩戸明裕、坂元重康(初期のWEJを邦文タイプでコツコツと作成した功労者)、井上豊、増市徹(前記)、小河いずみ、宗田ちほ子(現田村智子)、大日方弓子、中川はるみ(初期のWEJ編集人)、林茂秀(前記)、田村耕三(前記)、山本玲子、清水武彦(前記)、佐々木文子、松下了平(前記)、川崎真、南谷樹一郎(前記)、関長臣(JR技術系職員、第1回仏滅会の会場大阪弥生会館を世話された)、木寺利早子、川森律子(初期のWEJ発行人)、我孫子栄一(初期の主要メンバー)、寺杣伊左衛門(初期の主要メンバー)、家継房夫(二次会から参加。これによる二次会からの参加者も出席者とみなす制度が生まれた)。当日は出席者自己紹介と、清水武彦氏から「続ホームズ譚と聖書」の発表があった。
第2回(昭和57年2月21日・仏滅)大阪弥生会館 出席17名
研究とスライド「四つの署名と空屋の冒険の道筋を追って」南谷樹一郎、「ホームズ物語のイラストから」高田寛。
第3回(昭和57年5月23日・仏滅) 大阪市青少年教育センター 出席13名
ホームズこき下ろし座談会「シンデレラ姫は本当に幸せになれたか―シャーロックホームズ物語の結末に物申す」
座長 田村耕三
第4回(昭和57年7月25日・仏滅) 大阪弥生会館 出席13名
研究発表「ホームズはフリー・メイソンか?」寺杣伊左衛門、「続サセックス台地の老養蜂家」坂元重康
第5回(昭和57年9月19日・仏滅) 喫茶ジュン 出席14名
フリートーキング「ホームズのこととミステリーのこと」
第6回(昭和57年10月23日・仏滅) 喫茶ジュン 出席6名
フリートーキング(会員消息、よもやま話)
第7回(昭和57年12月12日)中国料理太湖、出席9名
仏滅会結成一周年記念大会兼忘年会、オークション
第8回(昭和58年2月11日) 神戸勤労会館 出席12名
研究発表「正典中の死体検視について、ホームズトルパン=ルパンの事件簿を中心に、㊙事件報告=N氏の事件メモから」中嶋顯。
かくして設立初年度7回の仏滅会を開き、2月11日の2年目に入ってから第8回の仏滅会が開かれた。WEJは1983年(飽和58年)3月20日に創刊1周年記念号(第2巻第1号通巻7号)を発行して2周年目に入った。
初年度のエピソードとしては、空前絶後とも言うべき下着1枚姿の青年像(孝彦君のきせかえセット)、とやはり下着姿の女性像(律子さんの着せ替えセット)が掲載されたことがあげられる。その後WEJ編集人を辞して上京した中川はるみさんと東京の若林孝彦さんが結婚しており意味深長である。川森律子さんもWEJ発行人を辞して消息を絶った。私的同人紙時代のエピソードである。
2年目の出来事としては、WEJ第1巻第4号(通巻第4号)が制作されたはずであるが版下が見当たらず欠号になっていることである。したがってWEJの通算ページはP7~9が欠けており、これを継続している現在のページ数も実態は3ページ少ない。
WEJ当初はA4縦型で手書き文字、第5号からタイプ文字に進化した。まるで中学校や高校の学級新聞のような紙面から、団体の機関誌に進歩して行く過程が見られる。